祖父の生まれ変わりを埋葬する(Apr. 26, 2008)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 土曜日の昼、グレコ母さんとキッチンで昼食の準備をしていると、何かすさまじい悲鳴が聞こえた。もしやと思って居間に行き、テーブルの下をのぞくと、グレコが鳥を捕まえてきて、例によっていたぶろうとしている。グレコ母さんが救い出すと、鳥はハトよりも小型ではあったが思いの外に大きな鳥で、目にした瞬間シメという鳥ではないかと思い、後でインターネットの図鑑で調べるとやはりシメだった。
 シメには思い出がある。高校の卒業を控えた3月の初旬、祖父が亡くなり、お葬式の日はめずらしい大雪になった。昔のことだから通夜も葬式も家で行ったのだが、父は大雪の中を来てくれた会葬者にしきりに恐縮し、祖父は何も悪いことはせず、まっとうな人生を歩んできたのに大雪とはどうしたことだろうと、天に不満を口にしていた。
 ぼくは中二階の部屋で葬式の始まるのを待ちながら雪の止まない窓の外を見ていたが、そのとき、隣の家の裏にあった蒲萄棚に鳥が一匹やってきて止まった。すぐに双眼鏡を出してその姿を確認して図鑑で調べるとシメという鳥だとわかった。鳥は死んだ人の魂を運ぶと何かで読んだことがあったものだから、雪の積もった蒲萄棚に止まって長く動こうとしないシメを見て、ああ、祖父の魂を運ぶために来てくれたのか思い、そのときはぼくの部屋のようになっていた中二階の部屋で虫眼鏡で新聞を隅から隅まで読んでいた祖父のことを悲しく思い出していた。
 だから、グレコが捕まえてきたのがシメだったことで、グレコを折檻しようとか思ったわけではないけれども、グレコが少し憎らしかった。シメは祖父の生まれ変わりなのだ。あるネイチャーライターのエッセイに、著者はアメリカの道で轢き殺された動物を見つけるたびに車を停めて埋葬してやるのだが、その動物はその動物の仲間のなかでは偉大な預言者のような存在だったかも知れないではないかと書いていたような記憶がある(正確な記憶ではない)。つまり、路傍に捨て置いてよいわけではないというわけだが、預言者云々は多少違和感があるとはいえ、そのシメにもあるいは餌を運んで来るのを待っている雛がいるのではないかと思うと、さらにたまらない気持ちになった。
 昼食後、雨が降っていたが、グレコ母さんと息を引き取ったシメをどこかに埋葬しようと外出した。向かったのは町田市の大地沢で、大地沢から枝分かれしている小さな沢の奥に行ってシメを埋葬した。やわらかい春の雨が野道をぬらしていた。