霧の哀しみ(Sep. 20, 2011)

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 高校時代の国語の教科書だったと思うが、円地文子の「眼鏡の哀しみ」(題名が違うかも知れないが)というエッセイがあって、なぜか記憶に残っている。ぼくは眼の質が良いので、老眼が出るまでは眼鏡には無縁だったから(しばらく前まで両目とも1.5だった)、眼鏡の哀しみについては知る由もなかったけれども、記憶に残っているのはたぶん、文章が上質だったこともあろうが、強度の近眼で有るために、相手の顔のニキビなどが見えないことも眼鏡の哀しみとして語っていたからだろう。見えることの喜びもあれば、見えないことの哀しみもあり。見えることの哀しみもあれば、見えないことの喜びも(語弊のある言い方かも知れないが)あるということだろう。
 今朝は昨日と打って変わって小雨が降り霧が出ている。霧が少し晴れた頃合いをねらって近所を散歩したが、多少晴れたというだけで風景はやはり霧に閉ざされていた。100メートルぐらいから先は乳色の霧に隠れている。しかし、霧が出たことで周囲の風景が閉ざされたことによって、森などは神秘を増し、見たくないものが見えないことの喜びを味わったのだった。