天使たちのいる場所(Dec. 26, 2011)

 仕事からの帰途、歯が痛いのに、止せば良いのに、中古カメラ店に立ち寄って具合の悪いカメラの相談などをしたものだから、歯の痛みはさらにひどくなり、額に冷や汗を浮かべながら家に急いだ。もうそろそろ背に腹は代えられぬ状態でどこでも歯医者の看板があれば飛び込みたいくらいだったのだが、もしも治療に長期間かかるならば、仕事に帰りなどに立ち寄れるようなアクセスのよい歯医者でなければならないとまだ理性的に考える余裕があったのがむしろ災いした。というのも、そこで思い浮かんだのが(他に思いつかなかった)、わが家から車で10分ほどのところにある天下一歯科だったからで、この光宙(ピカチュウ)的命名のセンスだけはどうしても頂けない、死んでも絶対この歯医者だけは行くもんかと誓っていたにもかかわらず、もうそのときは藁にもすがりたい危機的状況だった。ドストエフスキーは、「地下生活者の手記」の中だったと記憶するが、この歯の痛みが消えるならば世界が破滅してしまってもかまわないと書いている。このときのぼくの心境もまさに、痛みを取り除いてくれるならば、DQNネーム歯科でも何でもかまわないというものだった。しかし、嗚呼、車を飛ばしてピカ一の駐車場に飛び込むと、駐車場には一台の車も見当たらない。ここまで流行らない歯医者にかからねばならないのか、自分はここまで堕ちたのかと涙で一瞬風景がかすんだが、幸か不幸か、天下一は休みだった。しかし、困った。仕方なく、他の病気の時に処方された鎮痛剤の残りのあるわが家へ急ぎ、鎮痛剤を服用、ネットで「**市、歯科、評価」と打ち込んで検索した。ネットの評価などほとんど当てにならないことは承知しているが、とにかく近くで、もし評価が高ければもうそれを信じて行くしかない。最寄りの**駅近くに3つほど歯科があることがわかり、そのうちの一つには評価が出ていた。曰く、診察室は明るく、看護婦さんは親切で、先生の説明もわかりやすく的確、ほとんど痛みを感じないで治療が終わりました、私は子供を歯の治療に連れて行ってますが、満足しています、云々。ネットの評価など信じないと常日頃公言しているのに、ああ、この歯科は天国にちがいない、きっとそうだ、看護婦たちは天使なのだろう、と思い込んでしまった。きっと日本から北朝鮮に渡った人たちも、そのとき歯痛に苦しんでいたにちがいない。いや、ダメだ、こんな感想を悠長に述べている暇などない。鎮痛剤もすぐに効くわけがなく、服用後しばらく心理的に痛みが遠のいたように感じられたが、またひどく痛み始めた。しかし、休診日ではまずいのでとりあえず電話してみると、電話口には天使が出てきて、はい、やってますよ、今すぐでも大丈夫ですという。それでは15分後に行きますのでよろしく、と電話を切って、通勤で通いなれた道を飛ばして**駅前に急ぐ。しかし、歯科医院の地図は頭に入れていたのでよもや見つからないということはあるまいと高をくくっていたのが間違いで、この辺りだろうと当たりをつけた場所にはアロマセラピーの店があるばかり。近くで工事していたお兄さんに聞いても、オラ、地元の人間じゃねえ、という。またもや額に冷たい汗を浮かべながら街を右往左往する。シャッター街には人影もまばらだ。仕方なくスーパーの駐車場に飛び込んで、店から出てきたおばあさんに聞いてようやく場所がわかったが、ぼくが当たりを付けていた場所とはかなりズレていた。その歯科はシャッター街の、かつては銀座通りのような隆盛を誇っていたと思しき通りの一等地にあったのだろうが、今やすっかりくすんだシャッター街に馴染んでおり、まるで保護色をまとっているように目立たなかったのだ。ドアを開けると、内部はそれでもそこそこ小奇麗で、他に患者がいないものだから、天使が首を長くしてぼくを待っていた。名前や住所などを書かされ、診察室へ呼びこまれる。医師は三十代半ばぐらいだろうか。ネットの情報によれば、二代目とのことで、二代目イコール頼りないという偏見を持っているぼくは、何となく、実際に頼りなく見える医師に不安を覚えざるを得なかった。どうしましたと聞かれたので、痛む箇所を示し、以前診てもらった医師にレントゲンを撮ってもらったら昔治療したはずの虫歯の根っこに膿がたまっていると言われましたと言うと、それではまたレントゲンを撮ってみましょうと個室に案内される。レントゲンの結果はすぐに出て、写真を見せてもらうと確かに膿が溜まっていることが素人目にもよくわかる。以前診てもらった歯科医は保険医の資格を剥奪されたのだが、痛む理由を説明してくれた後、このまま放置しておくと、たとえば体調が崩れたり、疲労が蓄積したときなどに痛み出す恐れがある、歯を抜いて完全な治療をするか、別の治療法にするか、とりあえず鎮痛剤を出しておきまから考えておいてくださいとやけに冷静に対応してくれたのでそれなりに好感を持っていたが、今度の歯医者はいきなりがりがりやり始めた。以前よりも膿の量が多くてもう悠長に抜くべきか抜かぬべきか考えている状況ではないという判断なのかも知れないが、ちと乱暴過ぎる気がした。何か治療の過程を説明してくれているのだろうが、医師が耳元でひっきりなしに話している声は独り言のように聞こえる。せめて看護師が天使の声で励ましてくれればよいのだがそれはない。がりがりやられながら、痛みと恐怖と緊張で体が硬直し、眼には涙が浮かぶ。襲撃してきた暴漢に両手を突き出して我が身を庇うように、口腔内では舌が「やめて」と無言の叫び声を上げながら拷問道具に抗っている。思わず「痛い!」と叫ぶと、それでは麻酔をうちましょうと、唇の内側の辺りにぶすっと針が突き刺さった。口の左半分がじーんと痺れてくる。痛みは徐々に引いてきた。医師は相変わらず独り言を言いながらがりがりやっている。やがて何かを抜き出したいらしくぐいぐい引っ張り出した。なかなか抜けない。麻酔のお陰で実際には痛むわけではないが、映画などの拷問シーンをみているようで恐怖で震える。まだ抜けない。またがりがり、またぐいぐい、またがりがり。しかし、ようやく治療終了。涙をぬぐう。うがいすると血の塊があった。抗生物質を処方してくれたが、鎮痛剤はこちらが要求して初めて出してくれた。冷たいものなどを飲むと、錐を刺したように痛むが、あのじくじくする慢性的な痛みはなくなった。めでたしめでたし。地獄めぐりの一席でした。
(以上はすべてフィクションです)